真白にオレンジ、そして青

書き殴ってくスタイル

桜の森の満開の下〜孤独〜感想殴り書きまとめ

 

観劇日

12/8(土)昼、12/12(木)夜

※両日観劇後にTwitterにて殴り書いたものです

 

 

 

 

 

らいじんさんが頭から離れません……あれはズルい…
フェアリーも普通に笑っちゃってたもんね。楽しかったなぁ。そんでフェアリーの「ふふっ。ありがとう、らいじんさん」っていう桜の声がほんとにもう可愛くて可愛くて、あんスタのイベントで「お姉ちゃん♪」って言われる時のあれですよ、周りから悲鳴が漏れたもん。

すんごい、落ち着いた男性の声で語るフェアリーは全然ブレないんだけど、女房役をやる時の「え〜?出来るかなぁ??」って言い出すところとかほんと、あっ、フェアリーだ…ってなった。あと「死にたくない、死にたくない」って命乞いするところ、ほんとやめて…ってなった。

でもフェアリーの語り凄くて。段々と熱が入っていっているのが本当に分かって。アコガレと向き合ってから先はどんどん声が力が篭っていくように震えて絞り出すように語っていって、手でも表現し始める。ひとりの演者としてそこに立っていたように思う。全身で表現する人だった。「書くのだ」という時のあの景色、表情、見たかったな。

あんスタのレコーディングやイベントで、ぴょんぴょんするのは知っていたけれども、すんごいなんか、ぴょんぴょんする人だけれども、あの人は本当に全力で、身体を使って感情を乗せて表現する人なのだと、目の当たりにしました。高坂知也さん、凄いんだよ。凄かったよフェアリー。素晴らしかったです。

 

荒木さんと梅津さんの鼓毒丸しか知らないけれど、本当に演者が変わるだけでキャラクター性も動くんだなぁと思いました。なんだろう。引っ張られる台詞が違う。梅津さんの鼓毒丸では「不思議だなあ」という言葉が強く残って、荒木さんの鼓毒丸では「そうかそうか!」が強く残った。

「不思議だなあ」だけ取っても、梅津さんのほうはなんか、純粋に魔力を不思議がっている感じがあって、荒木さんのほうは魔力を不思議がる興味はあっても真に理解は示せていないような、そんなもんかね、みたいな距離感があるように思えた。「そうかそうか!」は、梅津さんのほうはツミ夜姫とのやり取りが嬉しいんだろうなという気配、笑ってる…!っていう印象が強くてそれこそ未来を夢見ている様子が見えた。荒木さんのほうはよく分かんねえけどツミ夜姫が言うんだからそうなんだろうな、という、梅津さんな鼓毒丸とはまた違った、お前聞いてる?感があって、台詞ひとつ取っても与えられる印象が全然違って興味深かった。

それと「ついでだからやってしまうよ」もそうだな。どちらのほうがどう好き、というよりは目の前にいるこの人が描き上げたキャラクター像を浴びることの楽しさ。違いを楽しむという、配役シャッフルの仕組みがなければ知り得ない楽しさがあるなぁと心底思いました。ツミ夜姫を背負うシーン、荒木さんのあれが本気だったのかは分からないけど、流れとしては自然に繋がる疲労具合だったように見えました。梅津さんマジで背負えちゃうんだもの。背負っていてもブレないから見栄えが良い。足もしっかり上がるし台詞も変わらず良く通る。でも荒木さんが自身でも出来るそれを捨てて疲れて見せにきていたとしたら…?っていう、見せ方、表現で訴える場所が個によって違うから生まれるタラレバ。何か答えを探しているという訳ではなく。やるやらないの取捨選択がある中で見せてきた役者のアプローチの違いを噛み締める。

そして荒木さんな鼓毒丸が女房7人を囲っているところ、ちょっとマジで観たかったですね…。ワイルドであって、粗雑さも垣間見える荒木健太朗さんの鼓毒丸。桜の下で狂う姿、とても良かったな…。そのシーン、梅津さんの時には角度的に色々と見えなかったから、何が悲鳴に繋がっていたのか、地面に伏した時そんな動きをしていたのかと思いながら見てました。蓋が開くのにびっくりしたもの笑

 

ツミ夜姫の存在は、私のなかで分からないもののひとつで。というか、ここまで掘るか!って思いました。正直。この女はこの過去を持った存在なのではと思わされる構図に、あっまじで???ってなった。いや物語に書かれた蛇足がただ思い出したからちょっと話してみただけの無関係で終わるわけないじゃんとは思っていたけれども、思ったけれどもそことあそこを繋げて掘り下げてそして「私の…」の台詞をぶち込んで来て、そう来るかぁあ!!!ってなった。大混乱した。まあ女に振り回されるのは楽しいから(語弊)良いんですけど。桜の下に埋まるもの、的な要素も入れてきて、なるほどなぁと思いました。物語そのままをストレートに作品にするだけじゃないんですよね。極上文學ならではの桜の森の満開の下なのだなと思わされました。ツミ夜姫は特にそう思った。彼女の過去を匂わせて、ひとつの個として存在させて、描く。そこにどんな意図があったのかは掴みかねているけれど。個人的に物語を読んだ段階では、ツミ夜姫は蛇足で描かれた桜の下で狂い死んだ母親そのものか、その母親が亡霊として年頃の、連れの男を殺された女に取り付いた存在か、桜に見た赤子の幻が母親の亡骸で形を得た存在か何かだろうと思っていた(首遊びというままごとに執着する点での想像)から、こう、大納言に「ツミ夜姫」と呼ばれたところで、ハイ自分の考え撤収ーーッ!!!って大号令出した。出したよ大号令笑

ツミ夜姫の正体としては誰にも分からないけれど。自分の考えのどれに近そうかと言えば、田淵法明さんのツミ夜姫は正体赤子のほうに近かったような印象で、首遊びが無邪気で巧みなように思えたからだと思う。轟大輝さんのツミ夜姫は正体母親のほうが近いと思えた。首遊びそのものよりも、遊びの中に込める怨みがよく見えた気がしたから。轟さんのツミ夜姫が「白拍子の首だよ!」と読み上げた時、その台詞を首に言わせていた田淵さんのツミ夜姫を思い出して、アプローチの個性…!となって、もう、痺れましたよね。そうも違っていたからきっと、田淵さんのツミ夜姫はどこか無邪気さをもって感じられて、少し離れてというか、どこか冷静にも感じられた轟さんのツミ夜姫は大人な気配を感じられたのだと思います。役者によってこうも違う。とても楽しいし興味深いことだと思えました。そしてどちらのツミ夜姫も、ただの美しい女にしか見えないのだから本当に困ってしまった。そこから男性の呻きが漏れることが異質に思えてしまったほどに。

ツミ夜姫は何者なのか。この作品において彼女は何者として描かれていくのか、興味は増すばかりです。次回作の副題「〜罪〜」は彼女の何かを指すのか、それとも別の何かなのか。どうにかして観たいと願ってしまう。この作品で描かれる彼女を、掴めるものなら掴んでみたいとただ、思います。らそして轟さんのツミ夜姫の時に観た、彼女の手の冷たさに気付いて鼓毒丸が立ち止まった場所が彼女と、舞台の上に置かれた首とを一直線にしてきたの、堪らないなあと思いました。あと物語の後半でミレンを牽制するような、威嚇するような気配を覗かせていたのは、彼女の未練に気付いていたからなのだろうか。

 

ところで山本誠大さんのミレン/アコガレ、めちゃくちゃに可愛いんですよ……………途中から、お嬢さん!娘さん!みたいな気持ちで見てたもん…….キャラクターって掘り下げたら、書き足したらここまで存在感を持った可愛らしい生き物になるんだなぁってほんと、かわいくっていじらしくて気丈な女性でした大好き…。山本さんのミレンは鼓毒丸への感情が溢れ出してからの可愛らしさが本当にすごくて、鼓毒丸の視線や気持ちがツミ夜姫に向くたびに今どんな顔してるのって目で追ってしまって、そのたびに胸が痛くなるようでした。だって鼓毒丸がツミ夜姫には笑うから…あの時の表情ほんとつらかったよ…?

でも都で家事を任されてはいても、特に縛られもせず井戸端会議が出来るくらいの自由はあっても、それでもあの屋敷(言ってしまえばあんな屋敷←)に居続けられるだけの盲目的というか、気にならないだけの動機があると考えることも出来るなと、思わなくもないし、その理由がそこにあるというのも納得出来てしまうなと思いました。……そういう解釈で描かれてしまったから、こう、鼓毒丸お前…ってなる……ばかやろ………って。

こちらが一方通行の想いを抱く女の子にうわぁ!うわぁあ…!ってめちゃくちゃ引っ掻き回されるのが山本さんのミレンだとしたら、梅津さんのミレンはスッとそれこそ三歩引いて前にも出てこないけれど、ただ想いを覗かせる時にはそっと鼓毒丸の隣に寄り添っている。なんとも静かな美しい人でした。山本さんのミレンにはもう可愛い…かわいい…って打ちのめされてしまって、本当に堪らなかった…めっちゃ好き…。梅津さんのミレンは静かだけれど、ツミ夜姫が鼓毒丸に頼み事をするべく耳打ちする時、鼓毒丸と合わせてピクリと反応していたり、食べてやりましょうか(あげましょうか?)の時にそっと崩した足を鼓毒丸に微かに寄せていて、ミレンおまぇえええって悲鳴あげるかと思った。ひぇえってなった。何でもないことのように言うくせに。そういう、ね。堪らないですよね。堪らないと言えば荒木さんの鼓毒丸、最初の方まじでミレンの顔を見ていた記憶がないんだよな…。お前まじかよって思った…。

 

そしてアコガレですが、正直私は観劇する前までミレン/アコガレが何を指すのか掴めなくて、桜の森なのかとも、都なのかとも考えていたんです。そんな私の前に現れたミレン(めちゃくちゃ可愛らしい)が私を更なる混乱へと陥らせ笑

落伍者との違う物語が語られているのは分かっても、それが何なのか私には分からなくて、ただ、坂口安吾の書く物語の中に存在しているのだろうと思っていたんです。そう。思っていた。梅津瑞樹さんのアコガレを目の当たりにするまでは。

梅津さんのアコガレは静かで美しい人だったミレンとは違って、不意に髪を弄り遠くを見つめ、落伍者に対してどこか冷えたような遠くを見るような目を向けるといった印象の方でした。そのアコガレを観て、この女性は誰だ。と思ってしまったんです。一方通行の想い、未練は憧れに変わった。変わる、というその線引きが掴めなかった私の前に現れた梅津さんのアコガレには、確固たるひとりの女性像が見えて。この人はアコガレとして描かれたこの女性を知っていて演じていると思いました。もう、心が身構えました。その人が誰か分からない自分が悔しくもあって、梅津さんの知識という武器にぶん殴られることが嬉しくもありました。というか嬉しかったです。彼の持つ武器を新たに目の当たりに出来たんだから嬉しかったんですけども。

落伍者と対峙するアコガレに、梅津さんの演じたアコガレに、この女性は現実の人だと確信させられて。坂口安吾の物語の中に、その姿を探そうとするのは違ったんだなと気付かされました。この作品は坂口安吾というひとりの人間が残した小説のひとつではあるけれど、書き続けてきた人間が残したものは小説ばかりではないのだと、手紙や、論文や、随筆等も含まれているのだよ忘れてはいないかいと。文学とは言語による芸術作品のことであると、小説作品だけではないのだ覚えておくんだねと、突きつけられたような気持ちにもなりました。だけど自分の至らなさを痛感するばかりでも、なるほど極上文學と、噛み締めてしまえる気もしていて。

だってアコガレの名で舞台の上に立っていたあの女性に今、こうして彼女の書いた作品に辿り着けた今がとてつもなく嬉しいから。これから読みます。ていうか、坂口安吾作品の後書き等々で気付けていれば良かった。ほんと、勉強不足で申し訳ない。無知なばかりで申し訳ないけれど、梅津さんがあのように演じた女性がどんな作品を生み出してきたのか、読むのが今からとても楽しみです。

…と言っても、アコガレに込められた女性がひとりでなかったらまた頭を抱えるところなんですけどね!

そして、どうやらアコガレだけじゃないようだ……いやちょっとは考えたさキャラクターに対して抱いた何故?の答えは別作品の中にあるんじゃないかって。思ったけど裏付けられるものを見つけられていなかったから、こう、次までに読み蓄えて、DVDでまた新しい発見を得られたらと思います。色んなところからぶん殴られそう。

 

桜の森の満開の下〜罪〜』とあわせて、楽しみにしています。