真白にオレンジ、そして青

書き殴ってくスタイル

舞台刀剣乱舞 悲伝 結いの目の不如帰 観劇直後の殴り書き

悲伝の話

※これは2018/6/6に書き殴ったものです

 

 

三日月宗近の望みとは何だったのか、そしてなぜ、燭台切光忠が三日月と相対する存在となったのか
ということに想いを馳せすぎた持論願望自己解釈


もしかしてだけれど、三日月さんは山姥切に折られなければ、あの円環から抜け出すことは出来ないのではないだろうか。だからトドメも刺していないのに、簡単に背中を向けた。そして約束をした。きっと折られるまで続く約束になるんだと思う。本当は、してはいけない約束なのかもしれない。次があるということは。
そしてたぶん、山姥切は結いの目の中に入ってはいけないんだよね。入る前に、折らなきゃいけない。でももし、本当は刀解でも良いのだとしたら?三日月の希望と、欲が、山姥切にそうされること、山姥切がそう決断できることを期待しているのならと考えたらもうね、おじいちゃんめっっちゃ心あるなぁあってなってね、だって悩む素振りは見せてるもんね、しんどいが増すよね。
だから廻る。廻って還ってきたからきっと、最後に顕現した三日月宗近は笑っていなかったんだと思う。
そして、EDがあの曲だから…。もしかしたら、三日月の顕現と同時に、時間は戻って、また骨喰にお守りを渡して、それから…を繰り返し出しているのかもしれない。それで、あの物語が虚の名を冠するなら、しんどいがすぎるんだけどね…どうなんですかね…。

 

今回の三日月の姿を見ていて、過去の色々な物語を持った人々を思い出した。どんぐりじじいももちろん。使われなかった刀と聞いて、それを守りたくても守れなかったと言い表したことによって、守るチャンスを得た蘭丸の姿を思い出した。彼は敵だ、歴史を変えようとしているのかと疑われた時、時間遡行軍と共に刃を向けた弥助のことを思い出した。義輝公に使われる機会を得た時、その美しさに使われず終えた三日月さんを見て、見果てぬ夢と聞こえた気がした。どれも人の為してきたことだ。人が刀を用い、変えようともがいたことだ。それを、結論として意味のない不毛な足掻きではとのたまった、三日月宗近は繰り返される時間のなかで、途方もない時間を繰り返したなかで、いつしかどこか心が死んでしまっていたのかもしれない。心非ずや。悲しいことに。


でも、もしかしたら三日月宗近の紡ぎたかった未来というのは、刀剣男士たちの、今生の生なのでは?と、そんな可能性も思えて。未来を欲したと明言した三日月は、義輝公を前にしても己は今の主の刀であると断言する。義輝公が持たない歴史を新たに作り出すことへ手は貸さぬと袂を別つ。たとえ使われなかった、守れなかったという想いがあったとしても、それとこれとは別の話なのではないかと思う。そして、本丸で皆といる時間が好きだと言う拡樹さんの言葉が重かった。

そして、悲しい、と。自分の感情をその言の葉に乗せたのが、光忠さんだったこと。そのしんどさたるや。彼はどれだけ人間に近くなるんだと、義伝から思っていたし、貞ちゃんや、今回歌仙にも「刀の本分を忘れるな」と言われていた光忠さん。しかしそれもまたひとつの在り方よと、その個に芽生えた心を是としてくれる小烏丸の存在はたまらなかった。本人としては色々と思うこともあるようだけれど。だけどその姿を見て小夜は、自分の物語を受け止めてあんなに強く居るのだと評するのだから、その強さも間違いではないのではと。思う。刀としての本分が疎かになってしまっていたのは悪いことだとは思うけどね。
もし、光忠さんが三日月と同じように戦うことを不毛に、無意味な繰り返しと捉えるようになって、それで、料理をしているほうが楽しいじゃないか!となってしまったら。その先に待ち受けるものは恐ろしいもののように思えてならない。
だからやっぱり、料理に己の価値を見出してしまいかけているあの状態は危ないものがあったんじゃないかと思う。だって彼は包丁ではないから。己の在る意味を履き違えては、きっといけないから、己の本分を見つめ直す、見つけ直すためにも、今回のことは必要だったのかもしれない。

 

光忠さん、ほんとは空っぽなのかもしれないけど、その空っぽを隠して今までずっも強くあったんだから、やっぱり光忠さんは格好良いんだよなぁ。そして例え空っぽでも、あの本丸の光忠さんは義伝っていう元の主の物語を見届けてきた刀だから。あの時間で確かに受け取った物語は彼の中に新たに息づくんだから、たとえその姿がもう刀とは呼べなくても、呼ばれなくても、刀剣男士として強く在れるのだと思いたい。
今回の光忠さん、見てしまったものから敵という答えを導いて、敵ならば斬る、折ると結論付けるの、ほんと、面白いくらいに自己判断。そのあたり、今の主に使われる、主命に動く燭台切光忠という刀なのではなくて、あの本丸の燭台切光忠の在り方なのかなと、思った次第です。


ところで軍議の光忠さんですが、ほんとしんどい顔して三日月しか見てなかったのでしんどいかった。
最後に歌仙と手合わせするとこ、厨当番の代表的なふたりが、本丸で料理以外のことをしてるの、たまんないですね。光忠さんも格好良い、ノリの良いにいちゃんしていて。これからも向き合っていくんだろうなぁ。ところで「分からないんだ!」っていう光忠さんの笑顔、眼帯と髪の毛で諸々隠れてるけど口角上がってるってだけでしんどいがすぎました。それまで思い悩める表情も見せていたのにね、分からないって笑うの、なにやってもどうしようもなかった!って言っているようで、今までも向き合っていたんだろうなぁと思うわけです。強がりな部分もあるだろうね、格好良くいたい刀なんだし。

「忘れていても、俺が覚えている」と義輝公は骨喰に言うけれど、記憶はなくとも、与えられた物語が己の姿を作り出す。それが刀剣男子だと言うのならば、己が覚えていなくとも、人から忘れ去られるという結末はないんだと、語り継がれたからこそ今生にたどり着いたのだという刀剣男士って存在はしんどいな!

あと本当に、頭が冷えたあとの光忠さん、ちゃんとまず相手から理由を聞き出そうと心掛けているのとても良いと思いました。

 

ところで、もし。ところでとかもしとか、多くて本当に申し訳ないんだけれども。もし(また言った)、義伝にあった伊達の刀は強いですという小夜の言葉。それぞれに刀として受け継いだ物語があるはずなのに、あんなに強く、まるで今を謳歌しようとしているかのように的な言葉。それこそ、悲伝で義輝公が与えてくださった「刀剣乱舞」という言葉の意味なのでは?と、思えて。しまったら、堪らなくない??ってなって。光忠さんの在り方は、まあ戦より厨を取ってしまうのは良くないけど、でも、決して否定されるものではないぞと。むしろ彼の在り方が、その今生を謳歌しているのだと言えるのならば、それはきっと悪いことではないのではないかと。
まぁ、義輝公の言う「刀剣乱舞」に、人間讃歌と似たものを感じたからという、私の思考回路な話ではあるのですが。でもそうだったら、光忠さん、やっぱり格好良いよねと。
そして、皆が今生を謳歌する未来を、どこかで欲してしまったのが三日月さんなのだとしたら、もしかしたら光忠さんは、三日月に近しい存在になりえたのかもしれない。
なんて、まぁ、どうなんだろう。タラレバご都合主義の自己解釈になってしまうばかりなのですが。